くらブログ ~歴史の足跡を訪ねて~

歴史の足跡から自分なりの歴史の風景を考えてみよう

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再開

しばらくブログをサボっていたが、ちょいちょいと復活しようと思う。
これからは歴史をメインでやっていく。
なので、ブログタイトルにも「~歴史の足跡を訪ねて~」という
サブタイトルを入れてみた。

歴史というと諸説入り乱れてどれが真実だか判らんけど、
だからこそ、歴史の足跡から色んな風景を想像できると思う。
そんなことを書いていこうかな~と。
あまり、歴史と関係ないことも書くとは思うけど。

あと、歴史の風景を想像するということなので、
細かい説明などは書かない。
中には、説明が足らんとか事実と違うとか言う人もいると思うけど、
真実なんて誰も知らんし、細かく説明してもつまらんので
余計な突っ込みは入れないように。
自分の歴史の風景を持つのは個人の自由だから。

鎌倉の旅5

極楽寺を出て、そのまま歩いて長谷寺へと向かった。

長谷寺は紫陽花(あじさい)の寺とも言われる。
その理由は斜面一面に紫陽花が咲き誇る散策路があるからである。
一度、紫陽花の時期に来たことがあるが、本当に斜面いっぱいに咲き誇っていた。
まことに見事といった感じである。

ただ、私の主観としては、紫陽花は小雨の降る路地の脇に咲いているという風景が
よく似合うと思っている。
私としては明月院に向かう途中の路地に咲いている紫陽花が一番好きだったりする。

今回は紫陽花の季節ではないので、散策路は通らなかった。

まずは階段を登って観音堂に向かう。
ここは長谷観音と言われる十一面観音像が祭られている。
この十一面観音は9.18mもあり、木造では日本最大だそうだ。
下から見上げると壮観である。
十一面観音といえば、その名の通り十一の顔がついている。
その中でも真後ろに位置する顔は、大笑の面で、大笑いしている顔だそうだ。
一度見てみたいのだが、中々見られる機会がないのが残念だ。

観音堂の側に宝物庫があり、そこに修復前の十一面観音の光背が公開されている。
他にも観音菩薩の三十三応身像などがある。なかなかの見ごたえである。

そして、長谷寺のもう一つの見所が弁天窟である。
洞窟の中に弁財天などの様々な仏像が石に彫刻されている。
ちょっとした探検気分である。

また、本堂前の休憩所では、鎌倉市外と由比ガ浜を眺めることができる。

長谷寺は見所満載の寺である。
ただ、その分、人も多いのがたまに傷だ。。。

今回の鎌倉の旅はここで終了である。
この後、小町通りでお土産を買ったり、妙本寺でまったりと猫をからかったり
して帰途についた。

鎌倉の旅4

前回からずいぶんと時間が経ってしまったが、鎌倉の旅の続き。
稲村ガ崎を後にし、江ノ電に乗って極楽寺へとやってきた。

この寺は鎌倉唯一の真言宗のお寺らしい。
建立したのは北条義時(北条政子の兄)の三男、重時。
重時は連署(執権の補佐役。執権の発行する書類に連名で署名するため連署という)を
勤めた人間であるが、極楽浄土を再現しようと夢みて出家し、極楽寺の建立に着手した
らしい。
だが、完成前に亡くなり、子の長時、業時が後を継いで完成させた。

開山は忍性である。
忍性は真言宗の僧で、貧民の救済に力を注いだ人である。
極楽寺では無料で診療する施薬院や孤児などを世話する悲田院などを作ったそうだ。
また、土木工事も精力的に行い、後の後醍醐天皇から菩薩の称号を与えられている。

この極楽寺に忍性の墓と重時の墓があるそうだが、このときは見られなかった。

この寺は新田義貞の鎌倉攻めの際に戦火でことごとく焼失してしまったそうだ。
前回、稲村ガ崎の記事で新田義貞の鎌倉攻めについて書いたが、ここもその舞台の
一つである。

本堂をお参りした後、ふと寺の敷地の端にある小屋が目に入った。
あっと思い、行ってみると小屋の前面が金網になっており中に本物の孔雀がいるのが
見えた。
実はずっと以前に鎌倉を訪れた時にこの孔雀に会っているのだが、どこの寺にいるのか
覚えていなくて、再び会いたくてもあえなかったのだ。
おぼろげな記憶では雪ノ下の辺りの寺ではなかったかと思っていて、その辺りを探して
いたのだが極楽寺では全然場所が違ってたらしい。
会えないわけだ。

それにしても、この孔雀は以前見たときは尾羽がほとんど抜け落ちててみすぼらしい
印象だったが、再び見てみると立派な尾羽がついている。
後で調べたら、孔雀の尾羽も生え変わりの時期があるらしい。
どうやら以前みたときは生え変わりの時期だったようだ。
みすぼらしいなどと、これは大変失礼をした。

思いがけず、捜し求めていた孔雀に再開を果たし、意気揚揚と極楽寺を後にした。
次は長谷寺である。

鎌倉の旅3

腰越から江ノ電に乗り、稲村ガ崎へときた。
ここは最近ではサーフィンのメッカで、映画「稲村ジェーン」の舞台にも
なった。
といっても、私はサーフィンをやらないのでよくわからない。

この日は天気がよく、青空の下、岬から見る江ノ島がきれいだった。
さすがに真冬なのでサーファはいなかった。

この稲村ガ崎にも一つの伝説が残っている。
それは南北朝騒乱の時代、新田義貞が鎌倉幕府へと攻め入る際のことである。
新田義貞は源氏の一族であり、足利尊氏の同族である。
鎌倉幕府より後醍醐天皇の討伐を命じられていたが、幕府を見限り
後醍醐天皇側についた。
足利尊氏も同様に後醍醐天皇側につき、足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め、
新田義貞が鎌倉を攻めたのである。
新田義貞はこの稲村ガ崎の先にある極楽寺の切り通しを攻めあぐねていた。
鎌倉は、山と海に囲まれた要害で、切り通しと呼ばれる山を切り崩して
作った道しか通っていない。
その一つが極楽寺の切り通しだが、当然幕府はここを厳重に守っている。
そこで新田義貞がこの稲村ガ崎に黄金の太刀を投げ入れ祈祷すると、
潮が引いて岬の下の海であった部分に道ができ、ここから鎌倉に
攻め入ったそうだ。

もちろん、これは伝説であり、実際は潮の満ち干きを知っていたのだろう
と言われている。

岬に新田義貞の記念碑があった。石碑の作られた年を確認すると
やはり明治時代であった。
というのも、新田義貞は足利尊氏の同族でありながら、後醍醐天皇と
足利尊氏が対立したときに後醍醐天皇側についたのである。
結局、この対立は足利尊氏が擁立する北朝と後醍醐天皇の南朝を生み出した。
室町幕府の三代将軍足利義光の時代に統一されるまで南北朝の対立は続く。
最終的には北朝に統合されるように統一されたため、長い間、北朝が正統の
朝廷であった。
が、明治期にそれが覆った。
そもそも、明治政府は幕府を潰し王政を復古してできあがったものであり、
後醍醐天皇を吉野に追い払って権力を奪った足利幕府には賛成できないだろう。
さらに幕末の攘夷派に流行った水戸光圀(水戸黄門)の「大日本史」で
後醍醐天皇についた楠木正成を忠誠第一の武士として褒め称えている。
そのため、明治に正統な朝廷はそれまでの北朝から南朝に変えられてしまった
のである。
そして、私も最近まで知らなかったのだが、現代でも正統な朝廷は南朝なのである。
なので、南朝側についた新田義貞の石碑が明治時代に建てられたのであろう。

ところで、新田義貞が同族の足利尊氏ではなく後醍醐天皇側についたことには
理由がある。
直接の原因は、足利尊氏の氏族である細川和氏・顕氏との対立と言われている。
鎌倉幕府を攻め落とした後、足利尊氏の子・足利義詮(よしあきら、後の二代将軍)
を補佐する細川和氏・顕氏が新田義貞を下に扱ったからだという。
これは新田義貞のプライドを大いに傷つけた。
というもの、足利家の宗家は新田義貞であるはずだったからだ。
これは足利家の初代の時代に遡る。
有名な源義家の三男の義国が、今の栃木県の足利荘を本拠とし、初代足利家となる。
しかし、この義国が失策をやらかしてしまう。
その罪で義国とその嫡男の義重は足利荘を追われる。
ただし、次男の義康が足利荘を継いでよいとなった。
嫡男の義重は憐れに思った義国から新田荘を与えられた。
これが新田義貞の先祖であり、足利荘を継いだ次男の義康が足利尊氏の先祖である。
このような来歴があり、さらに難航不落の鎌倉を攻め落としたのは
新田義貞である。
自分こそが武家の棟梁の器と思っていたことであろう。
そのため、新田義貞は後醍醐天皇についたのだ。


この稲村ガ崎の周辺には他にも十一人塚や日蓮上人袈裟掛の松などがある。
日蓮上人袈裟掛の松は道路の脇にあり、気づかずに通り過ぎてしまいそうな
感じであった。

その後、稲村ガ崎を後にし、再び江ノ電に乗り極楽寺へと向かった。

鎌倉の旅2

鎌倉の旅1からずいぶんと間が開いてしまったが今回はその続き。

江ノ電の腰越駅を降りて向かった先が満福寺である。
江ノ電の車窓から寺が見えてたので、あそこかと思っていたが、
行ってみたらやはりそこだった。
寺の入り口の階段が江ノ電線路のすぐ間際から始まっている。
元は普通の道だったのだろうが、江ノ電がその階段の前をかすめるように
作られたのだろう。
そういえば、北鎌倉の円覚寺も参道を線路が横切っている。
この辺りが鎌倉っぽいのかもしれない。

万福寺は天平16年(744年)に行基が開山した真言宗の寺である。
元歴2年(1185年)、源義経はここで腰越状を書いたと言われる。
(正しくは義経の言葉を弁慶がしたためた。)

この寺の見所はなんといってもその腰越状であろう。
その下書きが展示されているのだ。

腰越状とは、源義経が兄の頼朝の許しを乞うために書いた書状である。
ただし、頼朝宛てに書いたのではなく、頼朝の信任の厚かった大江広元に
取り成しを頼むために書いたものだ。

義経が頼朝の怒りをかった理由はさまざまに言われている。
義経が軍功を独り占めしようとしているという梶原景時の報告があったこと、
人望が高くなりすぎていること、
さらに頼朝に相談もなく、後白河法皇から左衛門少尉と検非違使少尉(判官)の
地位をもらっていることなどが理由としてあげられている。

それに対して書いたのが腰越状だが、この内容は兄弟の情を第一に訴え、
親の仇を討ちたい一心で平家を滅ぼし、後白河法王からの任官を受けたことは
私心からではなく源氏の誉れと思ったからだと弁明している。

だが結局許されず義経は京へ戻る。
その後、義経追討の命令が下り、奥州平泉まで逃げるがそこで最期を迎える。
奥州平泉は義経や頼朝の祖先、源義家に汚点を残した場所であるが、
その話はまた別の機会にしたいと思う。

頼朝の怒りの原因の最も大きいものは、やはり後白河法王から勝手に任官を受けた
ことではないかと思う。
というもの、私は常々、武士と朝廷の関係はすなわち中央政権(朝廷)と
地方豪族(武士)の関係にあるのではないかと思っている。
武士とはそもそも、朝廷から綸旨一枚で自分達の土地を奪われてしまうという
理不尽に対し、武力を持って守り抜こうとして発生したものである。
そのため、その本分は「一所懸命」(一つの土地(所)に命を懸ける)となる。
自分たちの力で守りきれないなら、より強い武士の配下に入り守ってもらう。

平家が天下を取りながらも、各地の武士が落ち目の源氏についたのは
武士(地方豪族)の代表として権力を手にしたはずの平氏が
自ら中央政権になってしまったからだと思う。
各地の武士にとって必要なのは、自分たちの土地を中央政権から保護してくれる
地方豪族の代表なのである。
頼朝が怒ったのもこの部分ではあるまいか?
義経が後白河法王から任官を受けてしまうと、源氏もまた中央政権に
取り込まれたと見られてしまいかねないのである。
頼朝がわざわざ鎌倉に本拠を置いたのも中央政権に対立する地方豪族の代表として
という意味があるのだろう。
義経の行動は頼朝の立場を危うくしてしまうのではないか。

事実、頼朝は恐らく暗殺されている。
なぜ恐らくかというと、頼朝の死については吾妻鏡に「落馬してほどなく死亡」とだけ
書かれており、その他の一切の文献に記されていないからである。
征夷大将軍の死についてまったくかかれていないということは書かれてはまずいという
ことだろう。
頼朝の立場とはそれほど危ういところにあったのだろう。
義経の腰越状は大江広元が自分の所で握りつぶしてしまい頼朝まで話が行かなかった
そうだが、おそらく腰越状が頼朝の目に止まっても結果は変わらなかったではないか。

頼朝は、軍事には長けても政治は一切わからぬ頼りない奴と思っていたのかもしれない。


境内には他にも弁慶の腰掛石や手玉石が置いてある。
弁慶の手玉石は、一抱えもあるかなり大きな石で、これを本当に
手玉にしてたのなら相当な力である。
手玉石は他の寺でも見たことがあるので、いろいろな場所に
似たような伝説が残っているのだろう。

万福寺を出て次は稲村ガ崎へ向かった。
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